丸一日語り明かして、エルロンドは重荷の一つを下ろした気がした。
 マエズロスとマグロールが、同族殺しの禁を犯し、エルウィングの息子達を誘拐した、
という客観的事実ではなく、彼らがどんなに優しく、愛情があり、そして彼ら自身が誰より苦しんでいたのだ、ということ。
 被害者であるべき自分が、彼らを憎んではおらず、むしろ、愛しているのだということ。
 ギル=ガラドはじっと耳を傾け、頷き、理解を示してくれた。
「私も彼らを尊敬している」
 そう語ったギル=ガラド王に、エルロンドは強く惹かれた。
 そして、エルロンドはギル=ガラド王をもっと知りたいと思うようになった。
 マエズロスが自分をここに連れて来たのだ。自分はここでギル=ガラド王の下で働こう。



「エルロンドは落ち着いたかい?」
 キアダンの私室の長椅子に、ギル=ガラドは足を投げ出して座った。
「ああ」
 不意に、自分がずいぶんと子供じみた態度をとっていることに気付き、ちゃんと座りなおす。
そんなギル=ガラドの姿に、キアダンはふと鼻で笑う。
「お前さんは立派な王だ。よくやっている」
 ワインをグラスに注ぎ、キアダンはその一つをギル=ガラドに差し出す。
「フィンゴン殿は、お前さんが王位を継ぐ事を見越していたのだろうな」
 グラスを受け取り、それに口をつけながら、「どうかな」とギル=ガラドは呟く。
「…父は、己の死を覚悟していた。トゥアゴン殿も…戦いの運命の中にいたからな
いずれ敗れる事も覚悟の一つだったろう。だから、僕を避難させた、だろう? いずれ王位を継ぎ、モルゴスと戦うために」
 キアダンは口をつぐみ、目を細めてギル=ガラドを見る。
「残念ながら、僕が戦場に出ることはなくモルゴスには裁きが下り、
モルゴスからシルマリルが奪還されればマエズロスらの血の制約は反故にされるだろうという思惑も外れた。
父は親友を守れず、息子を追いやった意味もない」
「エレイニオン」
「わかっている。子供じみた八つ当たりだ」
 グラスのワインを喉に流し込み、ため息をつく。
「エルロンドがお前さんを不安にさせるのか」
「そうだな」
 空のグラスを傾けて、ワインを要求する。キアダンはワインを注いでやる。
その真紅の液体を眺めていると、マエズロスらから受けた愛情の深さを真剣に語るエルロンドの表情が思い出される。
 失ってしまったもの。
 手に入れることのできなかったもの。
 何を信じればいいのか。
 定められた道を歩きながら、
 結局問い続けている、
(父上、私は、ちゃんとできていますか、父上の期待を、裏切っていませんか)
(守れなかった 守れなかった 守れなかった)
(父上が愛したひとが堕ちていくのを 止められなかった)
 キアダンが耳を塞いでくれなければ、悲観の歌を自ら遮る事もままならない。
 なのに、
 エルロンドはあんなに真剣に純粋に、愛情を信じられる。
 
 ボクハ 失ッタモノニ マダ スガリツコウトシテイル

「お前さんのために、船を作るよ」
 は?とギル=ガラドは顔を上げる。
「エレイニオン、お前さんはアマンへと渡る権利がある。戦いは終った。約束された地へと、海を渡りなさい」
「何を…?」
「フィンゴン王に、託されているのだよ」
 キアダンはチェストの中を探り、きれいに折りたたまれ、王の紋章で封印された手紙を取り出した。
封印は一度きれいに剥がされ、読み終わったあとまた元に戻されたような痕がある。
 キアダンは手紙をギル=ガラドに手渡した。
「エルロンドとともに、海を渡りなさい」
 優しげに微笑むキアダンを見上げると、切なくて胸が苦しくなる。
「エレイニオン」
 キアダンは、そっとギル=ガラドの額に口づけた。



 いつまでも悲しみに暮れていてはいけない。エルロンドは決心していた。
マエズロスらはもういないが、彼らはたくさんのものを残してくれた。与えてくれた。
健康な肉体を構成する武術の類や、諸々の知識。それらを役立たせなければならない。
 ギル=ガラドが執務に戻ると、エルロンドも港に行った。
ギル=ガラドが今していること、世界に何が起こったのか、これから世界はどう変わっていくのか。
「王は多忙なので、私が代わりに案内いたしましょう。私はクルフィンの子、ケレブリンボール」
 フェアノール王家の子息。エルロンドは丁寧に礼を返した。

 ケレブリンボールの知識は深く、実に器用で、独特の世界観を持っており、エルロンドの興味を大いに惹く事となった。
「この世界は驚きと発見に溢れております」
 瞳を輝かせてケレブリンボールは熱く語った。
エルロンド自身は鉱物や宝飾品などに興味はなかったが、彼の熱意はエルロンドの世界観を広げるきっかけとなった。

 キアダンとも会う機会があったが、彼もまた多忙でほんの一言挨拶を交わしただけに留まった。

 ギル=ガラドの執務室のある宮では、ギル=ガラドに会うことはできなかったが、
図書室を自由に使ってよいと言われた。図書室はあまり整理されておらず、怒涛の戦いの混沌を髣髴させられた。
 が、あらゆる年代のあらゆるジャンルの書物や書簡が無造作に積み上げられた部屋は、
エルロンドにある種の興奮を与えてくれた。それらを手に取り、自分なりに分類し、棚に並べていく作業は楽しかった。
そこには未知の発見や喜びがあった。
 そんな中でエルロンドが見つけたのは、乱雑にまとめられた紙の束だった。
たぶん、何かの下書きか覚書だろう。文字も文体も、どこか不安定で、言葉がところどころ途切れている。
 ニアナイス・アルノイディアドについての記述だ。
 客観的な言葉の羅列。フィンゴン王の死。
 ふと、ギル=ガラドの父がフィンゴンであることを思い出す。
つまりこれは、ギル=ガラドの父の死の記録である。
何の根拠も無しに、エルロンドはこれはギル=ガラドが書いたものではないかと思った。
 マエズロスやマグロールのことを思うとき、心は乱れ、手が振るえる。
そんな感情の一端を、この紙の上の記述に感じる。
 マエズロスやマグロールのことを話すエルロンドに向けるギル=ガラドの視線は、
単なる同情や哀れみではなかったと思う。
 共感。
 そう、共感、という言葉が合っている。
 愛するものが死に向かう行為を、どうしようもなく見つめるしかできない己の不甲斐なさを責める。
 エルロンドは、紙束を丁寧にしまった。いつか、これをちゃんとした本に起こそう。
歴史的に重要なものだし。自分なら、感情に翻弄される事なくまとめられるかもしれない。
 その許可を、ギル=ガラド王にいただかなければ。
 王は嫌煙するだろうか。
 どくん、と胸が高鳴る。
 そうだ。歴史を学び直そう。マエズロスたちのことも。父や母の事も。
彼らの失ったもののことも。それは、とても時間がかかるだろう。でも、自分には永遠の時間があるのだ。
 そうだ。自分は、エルフとして生きることを選んだのだ。
「ギル=ガラド王」
 その存在が胸の中に広がる。
 王に、会いたい。